« 二本松 | トップページ

2018年11月10日 (土)

二本松の菊人形

11月4日(日)

Cimg9637
第64回 菊の祭典
二本松の菊人形
 
Cimg9616
場面1 江戸城無血開城 
         ~西郷と勝の会談~
 
 【慶応4年1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍は、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことで「天皇の敵=朝敵」となってしまった。将軍・徳川慶喜は江戸に逃げ帰り、上野・寛永寺に謹慎し、恭順の意を表した。しかし、朝廷から追討の命が出され、有栖川宮熾仁(たるひと)親王が新政府軍の総大将として東に向かい、各地の旧幕府軍と戦うことになっていく。そしてついに江戸まで新政府軍が追ってきた。
 江戸城では、慶喜から後始末を命じられた勝海舟や薩摩出身の篤姫、皇室出身の和宮親王らが折衝にあたっていた。新政府軍を率いていた西郷隆盛は江戸城総攻撃を3月15日と決めていたが、9日に山岡鉄舟が慶喜の恭順の意を伝えるべく勝の書を持って西郷を訪ねると、その決死の覚悟に、交戦を避ける姿勢に変わった。13日、14日に西郷と勝の会談は実現し、江戸城は血を流すことなく新政府軍に明け渡され、江戸市民100万人は戦火を免れた。】
 
Cimg9620
場面2 奥羽越列藩同盟
         ~新政府軍への対抗~
 
 【奥羽列藩同盟が成立するのは1868年5月3日だが、4月4日、米沢藩・仙台藩家老の名前で奥羽諸藩に招集状がまわされ、既に同盟は動き始めていた。4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において、「朝敵」とされた会津藩・庄内藩の救済について密談を重ねた。会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締りとして旧幕府の要職にあり、薩摩・長州と対立したため、征討の対象とされた。この新政府軍の圧力に対抗するために結成されたのが奥羽列藩同盟であり、会津・庄内の朝敵赦免嘆願書を奥羽鎮撫総督府に提出した。
 しかし、17日、総督・九条道孝はそれらの嘆願を却下し、会津征討を命じたので、19日、奥羽各藩は会津征討軍を解兵し、朝敵赦免嘆願のための同盟を結ぶ事にした。
 5月3日、25藩により正式に奥羽列藩同盟が成立し、後に北越6藩も加わり、総勢31藩から成る「奥羽越列藩同盟」に発展した。】
 
Cimg9626
場面3 二本松少年隊エピソード
 
岡山 篤次郎 (13歳)
 【最初の木村銃太郎門下生。母に頼んで戎衣(じゅうい)をはじめ、手ぬぐいにいたるまで「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いてもらい出陣した。『母が屍を探す時にわかりやすいように。字が下手だと敵に笑われる。』との理由からだと伝えられている。】
 
上崎 鉄蔵 (16歳)
 【一時は大喜びしていたが、時がたつにつれて物思いに沈むようになり、これを見た母・スマはその訳を問いただしたところ『恥ずかしくない刀をもって戦いたい』とのことであった。上崎家には実戦用の両刀がなかった。鉄蔵の気持ちを汲み取った母は、すぐに実家に行き相州ものを調達し、鉄蔵に与えた。27日の朝、出陣する鉄蔵を母は祖母と共に見送り『行ってこいよ』と、いつものように声をかけると『行ってこいよではないでしょう。今日は行けでいいのです』と答えて玄関を出て、にっこり微笑み、ちょっと頭を下げると元気よく駆け足気味に立ち去ったという。】
 
Cimg9628
場面4 供中口の戦い
       ~農兵司令士の決断~
 
 【戊辰戦争の戦火は白河以北に達し、7月下旬には二本松藩領までに及んでいた。
 農兵司令士・三浦権太夫義彰は藩命により農兵約50人を率いて安達ヶ原の供中口(ぐちゅうぐち)を防備することとなった。
 勤皇の士でもあった義彰は、出陣の際に、両親に対して「天皇に対抗する意志は全くないが、藩命に反抗することもできない。一死をもって双方に臣節を全うする覚悟である」と告げたという。
 出陣姿は烏帽子に直垂(ひたたれ)、また、弓矢を携えていたものの忠節心から鏃(やじり)をはずした矢で応戦した。
 勝敗の帰結は早く、農兵を退去させたのち、一人丘に登り自刃しようとした時に流れ弾が当たり絶命、あるいは銃傷後に自刃したともいわれている。あとで義彰の屍を検死したところ、弓弦(つる)に辞世の句が結び付けられてあった。
 『あす散るも 色はかわらじ 山桜』】
 
Cimg9633
場面5 大壇口の戦い
     ~二本松少年隊の激戦~
 
 【7月29日の朝は、霧が深かったという。二本松兵と新政府軍との最初の接触があったのは午前6時頃で、大壇口陣地では杉田方面から砲撃が聞こえたとのことで、戦闘開始は8時半頃といわれている。新政府軍は組し易いと見たのか、隊列を組んだまま少年たちの眼下に姿を現した。
 『若先生 (隊長・木村銃太郎) まだですか。』少年たちは撃ちたくて気がはやる。『命令を待て、もっと敵を引き付けてからだ。』大砲には、木村銃太郎門下生の砲手・岡山篤次郎と成田虎治が付き、その傍らには銃太郎が毅然として立ち、他の少年たちは陣立てに身を潜め、銃を構え敵をにらんだ。
 戦闘開始後、ついに銃太郎が腰を撃ち抜かれる。
 銃太郎は『この重症では到底お城には帰れぬ。我が首を取れ。』と願った。少年たちは一緒に退却するよう懇願したが『押し問答する時ではない。早く切れ』と促し、副隊長が銃太郎の首を切り落とし、それをもって引き上げたという。
 わずか25人の少年での大壇口の戦いは、午前10時頃幕を閉じた。】
 
Cimg9636
大壇口の二勇士
 
Cimg9643
 
Cimg9674
場面6 二本松少年隊エピソード
 
成田 才次郎 (14歳)
 【二本松藩には初代藩主・丹羽光重以来、古くから「突き」の伝統があった。才次郎が出陣する時、父から『敵を見たら斬ってはならぬ。突け。ただ一筋に突け、わかったか。わかったら行け、突くのだぞ。』と教え諭され出陣したという。
 木村隊長に従って出陣した大壇口は激戦の末に破られ、負傷し憔悴しきっていた才次郎は、城の近くの松坂門まで戻った際に叔父に出会い、米沢に落ち延びるように言われるが、戦死した隊長や仲間の仇をとり、敵将を討つため、ふらふらと叔父の元を離れたという。そこに一隊の新政府軍を見た。
 新政府軍は、足元も定まらない才次郎を見て乱心していると判断し、気にも留めなかった。
 その時、才次郎は馬上の隊長を狙い、一気に脇腹を突いた。反射的に才次郎は撃たれる。
 突かれた小隊長は長州藩の白井小四郎であった。小四郎は息を引取る時、『敵ながらあっぱれな少年だ、殺すな殺すな』と言って絶命したと言う。】
 
Cimg9645
場面7 二本松城攻防戦
     ~信義を守った二本松藩~
 
 【二本松城に危機が迫っていた。7月28日夜、城内で軍議が開かれたとき、一部から降伏恭順の説も出たが、家老丹羽一学は『死を賭して信義を守るは武士の本懐』と徹底抗戦を主張した。
 しかし、二本松の城内は精鋭の大半が須賀川方面に出陣しており、城を守る兵力は甚だ少なく、老人と少年と町兵・農兵ばかりであった。大城代の内藤四郎兵衛は落城寸前まで城に残り、自焼を命じたのち、箕輪門を開き敵陣に切り込んだという。
 戊辰戦争後、新政府軍の隊長(参謀)板垣退助は、実際に二本松に攻め入った際の二本松藩士たちの戦いぶりを目の当たりにして二本松藩をこう評したという。
 『一藩こぞって身命を擲(なげう)ち、斃(たお)れてのち已(や)むまで戦い抜き、武士道の精髄を尽くしたのは二本松をもって最上とする。』】
 
Cimg9647
場面8 会津への進軍
      ~母成峠に向けて~
 
 【二本松藩を落としたのち、雪が降る前に会津を落としてしまおうという考えから1868年8月20日、新政府軍に会津攻撃の命令が下った。
 新政府軍は「会津は強い、先に仙台を攻撃する」とのうわさを流し、同盟軍を油断させた。
 8月21日早朝、新政府軍が約3,000の兵で会津国境の一つ、石筵の関門・母成峠に攻め込んだ。迎える会津軍は守備隊を4か所の峠に分散しており、母成峠は旧幕府兵や、新選組副長・土方歳三らなど約400人を主力に、二本松藩兵などを加え、総勢約800人で守っていた。
 安達太良山の麓に広がる母成峠は高地にある。会津国境の山々はすでに紅葉し、朝夕は冷気が包み、連日の秋雨の影響で視界は極めて悪かった。新政府軍はこの界隈の獣道に詳しい猟師を雇い、道案内につけ、同盟軍の背後に忍び寄り、急襲した。不意を突かれた同盟軍は、多くの死傷者を出し、退却を余儀なくされ、分散した。】
 
Cimg9663
場面9 鶴ヶ城籠城戦
      ~義に殉じた戦い~
 
 【1868年8月22日朝、「母成峠が破られた」との知らせが会津藩に入る。
 鶴ヶ城を守る兵士は、老人兵や少年兵、男装した女性兵など少数であった。会津藩は新政府軍の猛攻をなんとか防ぎきり、午後2時頃には藩境を守っていた会津藩の有力部隊が鶴ヶ城の危機を聞いて相次いで帰城し、鶴ヶ城の防衛力が回復して長期籠城戦に突入していく。
 しかしながら、兵力で勝る新政府軍は、鶴ヶ城下を包囲し、当時の最新式の大砲「アームストロング砲」で鶴ヶ城を狙い撃つ作戦に出た。
 のちに「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた山本八重も男装してスペンサー銃で奮戦し、会津藩は一ヵ月にも及ぶ戦闘に耐え続けたが、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、会津藩主松平容保は降伏を決意し、白旗が城門に掲げられた。】
 
Cimg9666
場面10 五稜郭の戦い
       ~戊辰戦争の終焉~
 
 【榎本武揚は旧幕府海軍副総裁として最後まで新政府軍に抵抗して戦った武人である。
 8隻の艦隊を率いて品川沖から脱走し、東北経由で函館にたどり着いた。新選組副長・土方歳三は会津・母成峠の戦いで敗れ、その後、榎本武揚の率いる艦隊と合流し、函館に向かう。
 榎本らは「五稜郭」を占拠し、「蝦夷共和国」樹立を宣言した。「旧幕府軍が函館を占領した」との知らせが江戸に届いたのは明治元年1868年10月末。直ちに討伐軍が派遣されたが、戦闘が始まったのは翌年3月。明治2年1869年5月、新政府軍の総攻撃が始まり、旧幕府軍は五稜郭に立て籠もって奮戦するが、土方が戦死すると、戦況はさらに悪化し、榎本らはついに降伏した。
 これにより、1868年1月より始まった戊辰戦争は終焉を迎え、明治国家確立への途が開かれた。】
 
★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜
 
11月10日(土)
新宿御苑新宿門横にあるインフォメーションセンター前の広場で
「新宿御苑ふくしま菊フェスタ」が開催され、「菊人形」の展示を見ました。
 
Cimg9687
 
Cimg9699
合戦場のしだれ桜と菊人形
 
Cimg9692
~二本松少年隊~
「戊辰の役において、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の守信玉砕戦は、他藩には見られない壮絶な最期でした。
なかでも、「二本松少年隊」は、明治の夜明け前に、愛する郷土そして家族を守るため、激戦の末に可憐な花を散らしました。この二本松少年隊は、正式に編成された会津藩の16歳から17歳からなる白虎隊とは違い、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちが緊急に配属されたため、正式な名称はなく、後に命名されたものです。」
 
Cimg9695
磐梯山ジオパークカレー(720円)
インフォメーションセンター内にある、カフェはなのきは、内装とテーブルに福島県産木材を使用している。福島県産の食材を使用したドライカレー。
 
Cimg9696
木戸川産 自家製スモークサーモン
 
新宿御苑の菊花壇展を30年ぶりぐらいに見ました。
 
Cimg9714
六角花壇(明治時代に作られていた花壇を復刻)
 
Cimg9707
懸崖作り花壇
 
Cimg9713
明治150年記念で菊栽培所を特別公開していた。新宿に生まれ育った私だが、ここに入るのは初めて。カラス除けのネットが張られている。菊花壇展は15日まで。

|

« 二本松 | トップページ

福島」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 二本松 | トップページ