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2019年3月23日 (土)

神指城跡

3月21日(木・祝)
新宿(4:43)→池袋→赤羽→宇都宮→黒磯→新白河→郡山→会津若松(10:56)
神指城跡へ行こう。路線バスは12時10分発なので1時間以上ある。歩く方が早そうだ。
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工事店にあった蛇口のオブジェ。遊び心があって、こういうの好きだな。
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中野竹子奮戦の地
セブンイレブンで昼食を買い、以前行ったことのある高瀬の大木に行こうとしたら、道路工事中で立入禁止。迂回して、先に神指城跡を見よう。田んぼの中に、いかにも土塁という感じの丘がある。二ノ丸土塁の四隅のひとつだろう。
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完成間近の若松西バイパス。23日から延伸開通したそうだ。
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神指城跡(こうざしじょうあと)
 【神指城は、慶長三年(1598)越後から会津へ百二十万石で
移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に命じ築かせた
日本有数の規模をもつ平城です。
 『会津旧事雑考』によると、当初は、会津盆地中央とする予定
でしたが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定め、慶長五年
(1600)三月十八日から築城を開始しました。兼続の総指揮に
より、神指の十三ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置
する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。
領内から十二万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を
築き、町割まで計画しました。しかし家康の上杉討伐令により、六月
十日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸は
四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣には着工できませんでした。
 面積は、若松城(鶴ヶ城)の二倍約五十五ヘクタールもあり、
毛利輝元の広島城に似た「回」字形をした城郭でした。中央の京・
大坂、西の広島、東の会津というように、政治経済の中心拠点にしよ
うと川や運河を利用して築こうとしました。慶長六年(1601)に
上杉氏は、米沢三十万石へ移封となり、城は破城され、更に寛永十六年
(1639)領主加藤氏が、石垣を総て若松城(鶴ヶ城)に運び去り、
神指城は廃城となりました。】
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南東隅土塁跡
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新選組隊士が戦った地、如来堂は土塁の上にある。
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如来堂
 『慶応四年(1868)九月四日、山口次郎こと斎藤一ら新選組隊士が守備し
たここ如来堂が、新政府軍によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所である。
 近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新選組は母成峠防衛の任となる
が、西軍の攻撃の前に敗退した。庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土
方に対し、山口は会津藩主・松平容保への恩義から「今、落城せんとするのを
見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と、会津に残留して徹底抗戦を主張した。
 会津を去った土方とは対照的に、山口は二十名(十数名とも言われている)
ばかりの隊士とともにこの地に宿陣していたが、西軍の襲撃を受けて全滅した
とされている。しかし数名の隊士が乱戦のなかを脱出し、生存していた。
 ここ会津で隊長として新選組を率いた山口においては会津藩が降伏開城した
後、藩士とともに斗南藩に移り、苦渋をともにしたのち、大正の世まで生き抜
いたのであった。』
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神指城本丸跡
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神指城穴太積み石垣跡
「織田信長の安土城石垣を築いた穴太衆が考案し
江戸時代に技術が完成した、耐久力に優れた独特
の石垣。普通野面積みともいわれるが裏込め石を
大量に詰める為、正式には穴太積み石垣と云う。
今、皆さんが立っている足元の土を掘れば、沢山
の裏込め石が出て来ます。
此処の石垣は、約360年前に鶴ヶ城に運ばれ
難攻不落の名城の石垣に利用されました。」
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神指城完成予想図
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本丸跡の角
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天守閣予定地
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高瀬の大木がある土塁と磐梯山
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北西隅土塁跡
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高瀬の大木がある土塁跡
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本丸跡方面
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高瀬の大ケヤキ
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土塁の先に民家がある。土塁の上に建っているようだ。
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 『慶長五年、時の会津藩主上杉景勝が高瀬村に新城
の築営を行ったが完成しないまま現在に至る。
この巨石はここより南方三百米の本丸に慶山村
「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の
基礎石で昭和五十八年にここに移し保存するものである。』
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涙橋の由来
「柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で付近に
道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称された。
会津藩が上杉時代の慶長五年(西暦1600年)に上杉景勝が石田三成と
計り徳川家康を牽制し十二万人を動員、西へ半里程の如来堂に幻の
神指城を築造する際、要所である橋を長さ十七間幅三間余の欄干のある
堅牢な柳橋とした。柳橋の二百米程下流の薬師川原には藩政時代の
処刑場があり特に昔キリシタン弾圧により寛永十二年には会津キリシタン
の中心人物である横沢丹波と外人宣教師など六十余名が捕えられ一度に
処刑された所でキリシタン塚がある。
戊辰の役では娘子軍(女白虎隊)の隊長中野竹子が柳橋の激戦で敵弾に
倒れ殉死し碑もある。
この場所には休み小屋があって刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族等と
水盃を交して別れを惜しんだところから通称涙橋と呼ばれ昭和初め
の木橋には涙橋とも記されてあった。」
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下流を歩きキリシタン塚を探したが見つからなかった。
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阿弥陀寺御三階
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東軍墓地前の燈籠
 「江戸時代、鶴ヶ城の南に徳川家康をまつる東照宮があった。
そこにあったと伝えられる石燈籠で、裏面には明和5年(1768)
との年紀が刻まれている。
 戊辰戦争のあと東照宮は破却されたが、燈籠だけはのちに
この場所へ移されることになったのである。」
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明和五年
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大町通り会津信金前駐車場で彼岸獅子を見た。
豊作と家内安全を祈り、春の訪れを喜び合う会津の伝統行事。
三体の獅子が笛と太鼓の音色にあわせ古式ゆかしい
舞を披露しながら市内を周る。
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磐越西線 会津若松(16:21)→郡山(17:34)
新幹線 郡山(18:05)→大宮(19:02)自由席5940円

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コメント

神指城、あまり変わってないようですね。
地権者の意向とかもあるのでしょうね。

「今、落城せんとするのを見て志を捨て去る、誠義にあらず」
カッコいいです。男惚れしますね。

投稿: ジャン | 2019年4月 6日 (土) 19時10分

やっと神指城に行ってきましたよ。
隅の土塁が残っていたので、城の大きさを実感しました。
斎藤一はイケメンだし、生き方もかっこいいですね。

投稿: あかべぇ | 2019年4月 6日 (土) 22時41分

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