旅行・地域

2018年8月 4日 (土)

新宿御苑 はなのき

8月4日(土)

新宿御苑インフォメーションセンター内に併設されている「カフェはなのき」がリニューアルオープンする。内装に福島県産木材を使用し、福島県木材協同組合連合会から寄贈されたテープルを配置した。
 
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新宿御苑インフォメーションセンター前で福島マルシェが開催された。
 
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福島県産木材を使った木工工作体験椅子造りコーナー
 
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カフェはなのきオープニングセレモニー(11時から)
裏磐梯の森の誕生秘話などの記念講演があった。
 
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カフェはなのき
 
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「新宿御苑の敷地は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷地の一部です。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西に伸びる街道と鎌倉街道が交差する要所でした。このため、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたものとされます。」
その後、領地を信濃に移され、高遠城主となった。上屋敷を神田小川町に賜り、御苑の地は下屋敷になった。元禄11年、幕府は広大な下屋敷の一部を返還させて、町屋・馬継ぎの施設を設けて宿駅(内藤新宿)とした。明治になり、内藤家の邸宅地と周辺地を購入した大蔵省は、明治5年に牧畜園芸の改良を目的とする「内藤新宿試験場」を設けた。
 
新宿ゆかりの江戸東京野菜 鳴子うり(マクワウリ)
日本発の国産イチゴ「福羽苺」
 『福羽逸人が初めて品種交配を手がけた野菜はイチゴです。
 明治25年(1892)ごろにフランスから種子を輸入し、実生を選抜育成して、明治33年に国産初となる「フクバイチゴ」を作出しました。
 実は大ぶりで長細く、大正時代には高級品種として全国に普及しました。
 オランダイチゴの栽培品種ジェネラル・シャンジーとフランスの品種ドクトル・モレールがもとになっています。』
 
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【テーマ】 明治から平成 明治150年
御苑と福島の融合
 
「明治時代より西洋文化が取り入れられ西洋野菜等が御苑から日本全国に広がり現在の平成の時代を迎えております。今日カフェはなのきのリニューアルを記念しまして御苑から福島県に広まった食材にスポットをあて御苑と福島の絆を食材を使用し料理を通じて表現しました。」
 
【はなのきリニューアル里帰り試食メニュー】
カクテル金魚
旬の福島県産大地の恵み ハーブスープ御苑風
内藤ドック ベーグル各種(福島県産えごま豚肉使用)
福島県白河市産野菜のピクルスの取り合わせ
新鮮とれたて福島県産大地の恵み 生野菜サラダ
磐梯山ジオカレー 福島県産えごま豚・野菜使用
ごはん 福島県天栄村産使用
畑の恵み 野菜の焼き菓子
福島県産里の恵み 季節のフルーツゼリービアースタイル
会津産ホワイトアスパラガスのバニラアイスクリーム各種
 
【カフェはなのき福島応援里帰りフードメニュー】
(福島県産食材使用)
オリーブ・苺カクテル御苑風
旬の福島県産大地の恵み ハーブスープ御苑風
内藤ドック(福島県産えごま豚肉使用)
磐梯山ジオカレー スープ付
 福島県産大地の恵み 生野菜サラダ ピクルス添え
ごはん 天栄米使用(福島県天栄村産)
ベーグル各種(福島県産野菜・果実使用ディップ)
里の恵み 野菜の焼き菓子
季節のフルーツゼリー福島県里の恵み ビアースタイル
会津産ホワイトアスパラガスのバニラアイスクリーム
苺・とうがらしソースアイスクリーム(会津産アスパラガス使用)
ピーチメルバ(会津産アスパラガス使用)
季節のまるごとシャーベット
8月4日・5日限定メニュー
 
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〈内藤ドック〉(福島県産野菜・福島県産えごま豚肉)
〈磐梯山ジオカレー ピクルス・サラダ添え〉(福島県産野菜・えごま豚使用)
 
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〈会津産大地の恵み〉ホワイトアスパラガスのバニラアイス(会津産ホワイトアスパラガス)
〈福島県産野菜のハーブスープ御苑風〉(生姜・ウコン・旬の野菜)
〈福島県産里の恵み〉フルーツゼリービアースタイル(旬ノ果実 桃 暁)
〈カクテル 金魚〉(御苑ゆかりの内藤とうがらし・イチゴ・オリーブ)
 
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〈ベーグル各種〉(福島県産野菜 果実のディップ)
 
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新宿御苑に入るのは久しぶり (入園料200円)
カフェはなのきのオープンセレモニーは事前応募制で予約してなかったし、一般のオープンは2時から。磐梯山ジオカレーは御苑内のレストランでも食べられる。
 
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レストランゆりのき
 
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磐梯山ジオパークカレー
 
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磐梯山ジオパークカレーセット(ドリンク付き)1000円
ドリンクはコーヒー、紅茶、オレンジジュースから選べる。
 
『福島県会津磐梯山を表現しました。
レストランゆりのきスタイルの「磐梯山ジオパークカレー」です。
ソースには野菜の旨み、甘みのあるエコ・クッキング調理のドライカレーでお召し上がり下さいませ。福島県産野菜も使用しております。』
 
鉄腕ダッシュに出てた、ニホンミツバチの巣があった木を探したが見つからなかった。
インフォメーションセンターに戻り、奥会津や猪苗代湖の写真展を見た。
帰りに福島マルシェで桃(あかつき)を買った。

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2018年3月25日 (日)

追分の明神

3月25日(日)

新宿(7:22)→宇都宮(9:14)
宇都宮(9:31)→黒磯(10:21)
 
黒磯駅から那須町町民バスに乗って、終点「追分」で降りる。福島県との県境まで4~500m。県境近くに「追分の明神」がある。国道294号線の「境の明神」のように県境をはさんで二社並立してたといわれているが、福島県側には神社がない。
 
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那須町町民バス 黒磯(11:00)→追分(11:48)500円
 
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関東ふれあいの道 これより福島県 白河の関跡まで2.6km
県境というより国境という感じがする。関東と東北(奥州)の境。
 
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栃木県 県境標識
 
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那須町指定史跡 追分の明神
鳥居の左に「玉津島神社」とある。
 
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追分明神の杉
 
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從是北白川領の石柱
追分の明神の真ん前にある。
境の明神にもおなじ石柱があった。
 
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神社のすぐ近くに県境がある。
 
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福島県側の神社はこの辺にあったのかな?
これから白河の関に向かいます。

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2017年5月22日 (月)

23区内の会津・新選組ゆかりの地を歩く

2017年5月21日(日)

JR東日本「都区内パス」(750円)を使い、会津と新選組ゆかりの地を歩いた。

沖田総司逝去の地(大京町)→将軍お上がり場(浜離宮)→会津藩松平家中屋敷跡(東新橋1~2丁目)→会津藩松平家下屋敷跡(三田2丁目)→会津藩菩提寺実相寺(三田4丁目)→興禅寺萱野権兵衛・神保修理墓(白金6丁目)→成就院お静地蔵尊(下目黒3丁目)→板橋・近藤勇墓(滝野川7丁目)→板橋宿(板橋3丁目・仲宿)

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伝 沖田総司逝去の地

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新宿区大京町29

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植木屋平五郎の敷地は広かったようだ。沖田総司が亡くなったのは平五郎の離れとなっていて、この辺りのどこかだと思う。

中央・総武線各停 千駄ヶ谷→秋葉原

中央線ホームのミルクショップ酪で酪王カフェオレ(130円)を飲んだ。瓶入りの酪王牛乳や酪王カフェオレが飲めます。

京浜東北線 秋葉原→新橋

浜離宮恩賜庭園(300円)

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将軍お上がり場

リーフレットの説明文
「将軍が船に乗降する場所でした。昭和24(1949)年のキティ台風で階段の一部が崩れて海中に沈みました。」

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15代将軍徳川慶喜と会津藩主松平容保らが、開陽丸で大阪から逃げ帰った際、小舟に乗り換え上陸した。

2010年放送のブラタモリ「鷹狩り」で、タモリさん一行は将軍お上がり場から上陸した。

この近くから水上バスが出てる。これに乗れば水上から将軍お上がり場を見ることができる。給料日前なので、またの機会にしよう。

恩賜庭園、中の御門出入口から出て、海岸通り(上は高速道路)を渡る。この辺は会津藩松平家中屋敷跡だ。

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会津藩松平家中屋敷跡

この辺全部、中屋敷跡。痕跡は特になさそうだ。

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ウインズ近くの汐留西公園の地図

中屋敷跡は、港区東新橋1~2丁目付近(汐留通りまで)

浜松町駅まで歩く

山手線 浜松町→田町

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会津藩松平家下屋敷跡

港区三田2丁目付近
三ノ橋から慶応義塾中・女子高・グラウンド、三井倶楽部敷地一部

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三之橋

松平肥後守の下屋敷脇にあるので、肥後殿橋と呼ばれていたそうだ。

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三田綱町児童遊園

下屋敷跡のほぼ真ん中

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綱坂 つなざか

「羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。」

塀の奥は下屋敷跡

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実相寺(会津藩の菩提寺の一つ)

港区三田4-12-15

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聖光院之墓

保科正之の側室、後に継室。お万の方ともいわれる。
出羽米沢藩主に嫁いでいた長女媛姫が急死した。この死について、正之の別の側室が産んだ松姫が加賀藩主前田綱紀に嫁ぐことにお万の方が嫉妬し、毒殺しようとしたが誤って媛姫を毒殺したという言い伝えがある。
松姫の婚礼で実家へ里帰りしていた媛姫の具合が悪くなり、婚礼の2日後に亡くなった。毒が入った松姫の御膳がお付きの者の機転で取り替えられたため、媛姫がその毒入り膳を食べて死んだと伝わっている。(会津藩家世実紀)

山手線 田町→目黒

目黒駅から1.6キロ、徒歩20分

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興禅寺(会津藩士の墓が多くある)

港区白金6-14-6

萱野権兵衛と神保修理の墓が並んで建っている。黒河内家の墓もあった。

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萱野権兵衛の墓

「萱野國老敬仰碑
徳川幕府の末 天下大いに乱る 此の時我が会津藩主松平容保公
は推されて京都守護職の大命を拝し 朝廷幕府諸藩の間に立って
報公の誠を效たす 國老萱野長修命を奉じて藩政を執り 三軍を
督し 粉骨臣節を尽す 戦終って後聖天子我が藩公を寛典に処し
首謀の臣を索む 因って國老は同僚田中土佐 神保内蔵助と之に
当る 然るに田中 神保は八月二十三日西軍鶴ヶ城下侵襲の日
自刃す 国老罪を一身に負い 翌明治二年五月十八日保科邸に於
いて死を賜い 芝白金興禅寺に葬らる 國老の殉節により主家は
再興し 其の臣は皆罪を免ぜらる その忠烈凛として天日を貫く
今年 百回の忌辰に当る 不肖その墓に詣で 入っては相 出で
ては將 一死国に殉ぜし大義を追慕して去る能はず のち墓碑を
厳修しその傍に此の碑を建立し 以ってその大義を不朽に伝えて
世道人心の作興に資す
 昭和四十三年五月十八日
             会津会 会長 柏村 毅」

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神保修理の墓

来た道を戻り、目黒駅の反対側へ。目黒駅から1キロ、徒歩12分。

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たこ薬師成就院

目黒区下目黒3-11-11

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お静地蔵尊由来

 「この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室、お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長十六年(1611年)に男子「幸松麿」を授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢を畏れながらもその恙無いご成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いかない、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
 元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩の際、当寺に参拝され、舜興和尚(中興第十五世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永八年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
 正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖となります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
 お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。」

山手線 目黒→恵比寿

目黒は埼京線が止まらないから、恵比寿で埼京線に乗ろうとしたら、事故で遅れているという案内があった。次に来たのが湘南新宿ラインだった。涼みたかったのもあって、赤羽で降りることにした。

湘南新宿ライン 恵比寿→赤羽

イトーヨーカドーの地下フードコート、幸楽苑で味噌ラーメン(421円)を食べた。

埼京線 赤羽→板橋

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新選組隊長 近藤勇墓所

北区滝野川7-8-10

近藤勇と新選組隊士供養塔

 「慶応四年(1868)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
 本供養塔は没後の明治九年(1876)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である昌宜が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
 戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。」

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近藤勇と新選組隊士供養塔 近藤勇像

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近藤勇供養碑 永倉新八の墓

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板橋宿平尾町脇本陣跡

板橋区板橋3-15

 「慶応四年(1868)四月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。」

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板橋宿本陣跡

板橋区仲宿47-10

板橋駅に戻る途中、極上の会津ポスターがあったから振り返ると、喜多方ラーメンの店があった。

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喜多方屋 本店

板橋区板橋3-27-3

日曜日で定休日だった。都内で初めて喜多方ラーメンを出したお店だそうだ。

埼京線 板橋→新宿

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2017年4月10日 (月)

陸前山王719系あかべぇ疎開

4月9日(日)

今回は719系の写真ばっかりです。

青春18きっぷ5回目を使い、陸前山王駅に疎開留置されている719系あかべぇ(H-11とH-14)を見に行こうと調べてみたら、最短で12時28分。各停で往復すること考えると疲れそうだ。仙台まで新幹線で行って、後は18きっぷを使おう。

新幹線 東京(6:04)→仙台(8:00)10370円自由席

陸前山王は仙台から3つ目の駅
東北本線 仙台(8:30)→

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→陸前山王(8:42)

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H-38の奥にH-11あかべぇが見える

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H-3の奥にH-11あかべぇが見える

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H-14あかべぇの先頭が少しだけ見える

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陸前山王駅

無人駅で自動改札しかない。18きっぷは自動改札に入れられないから、そのまま通る。案の定、扉が閉まってピンポンが鳴る。こういう時は仕方ないよね。帰りも扉が閉まってピンポンが鳴った。

駅の反対側に行こう。改札を出て、左に行けば陸橋、右に行けば踏切を渡って行ける。少し遠回りだが踏切を渡る。

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H-11あかべぇがいた。

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3月5日に乗ったのが最後でした。ダイヤ改正後に運用されていたから、残るものだと思ってました。架線のない場所に放置されるということは、いずれ解体されるんでしょうね。でも、どこかの第三セクターとかで活躍したらいいなと思ってます。

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車両の間に「渡るな危険」の張り紙がある。

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H-14はH-5とH-8に挟まれています。

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H-14は会津若松駅側の貫通扉のあかべぇが小さい。

陸橋から719系留置の状況を見よう。

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             ⑥H5+H37
   ⑤H11+H39 ④H14+H1
③H38+H3 ②H25+H8 ①H7+H6

①2/27 H7+H6
②3/07 H25+H8
③3/14 H38+H3
④3/22 H14+H1
⑤3/28 H11+H39
⑥4/06 H5+H37

近いうちにまた2編成4両が疎開されるらしいです。

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もしかしたら、H-11も間に挟まれて見えなくなるかも。

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H-14あかべぇが悲しそう。

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H-11をじっくり見よう。

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719系あかべぇに何回乗ったか考えた。
会津に通算150日以上行った。高速バスに乗ったか、バスツアーで会津若松駅を利用していないときもある。何割かはあいづライナー(東武色・国鉄色)か東武~会津鉄道に乗った。乗るならあかべぇ優先だけど、東北色しか来なかったこともある。でも、日帰りで行くことが多いから、100回ぐらい乗ったかも。

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1時間くらい、719系あかべぇを眺めていた。11時10分の電車に乗るから、もう行かないと。手を振って、涙ぐみながら別れた。あかべぇ、ありがとう。

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跨線橋を渡り、ホームの端からH-14をズームで撮る。小さいあかべぇも撮れた。

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H-8の奥にH-14小さいあかべぇと小法師が見える。

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仙台行きの電車が来た。719系H-40とH-17の4両だった。H-17は磐越西線を走る車両で、今日は仙台以北で走ってた。

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H-40窓から。719系あかべぇ、ありがとう。バイバイ。

陸前山王(11:10)→仙台(11:24)
仙台(11:36)→白石(12:24)
白石(12:30)→福島(13:04)

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2017年3月 2日 (木)

新宿 松平容保邸跡

もともと会津に興味がなかった。自粛ムードで観光客が来なくて困っているそうなので、余震の心配はあったが、2011年のゴールデンウィークに1泊2日で行った。猪苗代湖と喜多方ラーメンは知ってたけど、会津若松は知らなくて、案内所で地図をもらって鶴ヶ城に行った。正直、よくあるコンクリートのお城だなという感想ぐらいしかなかった。歴史にも興味がなく、白虎隊や戊辰戦争もほとんど知らなかった。

Photo 2011年4月30日撮影

お土産のあかべぇサブレーの箱が捨てられず、あかべぇグッズを買いに青春18きっぷで会津若松に再び行った。それから会津、福島県各地に行くようになった。

2012年8月、松平容保公が現在の新宿区荒木町の生まれだと知った。荒木町のほぼ全域が、美濃高須藩(高須松平家)上屋敷だった。お屋敷は荒木町19番地辺り。会津松平家に養子入りした。まさか容保公が家から2キロも離れてない場所で生まれていただなんて。

さらに、明治26年正受院(新宿2丁目15番20号)に埋葬され、大正6年会津藩主松平家墓所・院内御廟に改葬されたことを知った。ちなみに私は、正受院と同じ新宿2丁目15番にあった医院で生まれ、小学校に上がるまで近くに住んでいた。

2014年10月、現在の新宿区富久町(牛込区市ヶ谷富久町118番地)に住んでいたことがわかった。私は容保邸跡から徒歩数分の所に住んでいる。なんという偶然なんだろう。

新宿歴史博物館 平成26年度特別展 「高須四兄弟 新宿・荒木町に生まれた幕末維新」のイベントで、高須四兄弟に関する史跡をめぐった。その中で、この辺が「会津ヶ原」と呼ばれていたと知った。

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富久クロス(55階建て)

容保邸があった118番地を含んだ一帯が、再開発で55階建てのマンションが建った。当時の折込広告にはキョンキョンが出てた。

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118番地だった所に、イトーヨーカドー食品館新宿富久店ができた。ちなみに私の家から一番近いスーパーマーケットです。

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富久町遺蹟(西富久地区第一種市街地再開発事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書)から図をお借りしました。容保邸があった市ヶ谷富久町118番地の正確な位置がわからない。後に載せる古地図を見比べるとある程度わかる。靖国通りから医大通りまでだからけっこう広い。

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地図の赤で塗ったところが、仮埋葬された正受院です。鐘楼の奥のあたり一帯、約20坪が松平家の墓域だった。容保公の墓があったことを記した案内板はない。

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外苑西通り側に二つのお社がある。富受稲荷大明神、五色弁財天・清滝不動尊・秋葉大権現。神社の地図記号を赤く塗った。富久クロスができる前はそこにあった。現在のような立派なお社ではなくて、狭い路地に真っ赤なお社が二つ並んでいた。バブル期の地上げで周りは駐車場と空き家ばかりだった。118番地内にあったと思われるが、いつ頃からあったかはわからない。

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調査地点、左下の角から

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敷地の一部は道路拡張で靖国通りになった。

「紙碑・東京の中の会津 牧野登/著」によると、明治6年1月23日に愛宕下邸で生まれ、同月25日に没した女児は三田の実相寺に葬られ、明治7年3月5日に没した男児二人(おそらく双生児)は正受院に葬られた。この間に愛宕下から市ヶ谷富久町へ移転されたであろう。

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赤く塗ったところが容保邸だと思われる。

 「明治十三年に日光東照宮就任の際の容保自筆履歴では〝市ヶ谷富久町百十八番地居住〟となっている」(紙碑・東京の中の会津)

明治13年、容保公は日光東照宮宮司になり、同時に西郷頼母も宮司を補佐する禰宜職に就任している。

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容保邸前の丁字路 富久さくら公園

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丁字路から撮った。お屋敷があったのはクリニック付近でしょうか。

明治16年から20年まで容保公と家族は、会津若松の御薬園に住んでいた。

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「八重の桜 第43回鹿鳴館の華」を見ていたら、明治16年、京都に届いた封筒に「東京府牛込区若松町三番地 山川浩」と書いてあった。現在の住所だと新宿区若松町6番、牛込若松町郵便局付近だと思う。gooで明治時代の地図を見ることができる。容保邸の敷地と比べると狭いが、現代の住宅事情を考えるとなかなか広い。容保邸から山川邸まで1.5キロ程度、徒歩20分弱。

東京地籍図新宿区編第3巻 東京市牛込区地籍台帳によると、昭和6年12月現在の若松町3-1の面積は123.31坪となっている。

照姫は、明治17年2月、「滞在中であった東京牛込の旧会津藩家老山川浩の家で生涯をおえた。」(幕末会津の女たち、男たち-山本八重よ銃をとれ/中村彰彦著)正受院に埋葬され、会津藩主松平家墓所・院内御廟に改葬された。公式では、小石川の保科邸で亡くなったとされている。

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小説家・田山花袋が一時期近くに住んでいた。明治19年7月14日「一家をあげて牛込区市ヶ谷富久町一二〇番地(会津候邸内)に移る」。明治22年、牛込納戸町に転居した。

「私達は取敢ず牛込の奥のある大名の下邸(しもやしき)の一部に住った」
「段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜毎に出て来た。」(東京の三十年 再び東京へ)

「松平家が〝牛込市ヶ谷富久町百十八番地〟よりこの〝小石川区小日向第六天町八番地〟に転入したのは、明治二十年一月二十八日のことである。」(紙碑・東京の中の会津)

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「内藤新宿の昔を語る古老たちの手記の中に、おそらく松平家が富久町を去った明治二十年以降、富久町一一八番地のあたり一帯が〝会津ノ原〟と呼ばれていたということが記されている。」(紙碑・東京の中の会津)

古老たちの手記とは、「内藤新宿の思い出 第1-6集/四四会」という文集のこと。明治44年3月に、華園尋常小学校(花園神社裏)を卒業した方々が当時の思い出を回想して、昭和41年から46年にかけて発行したもの。新宿歴史博物館内の図書室で閲覧できる。会津の原、会津の原っぱで遊んだという記述があった。

「会津の原はいまの厚生年金会館の裏のほうにあった。牛込富久町のあたりで、もと会津屋敷があった跡らしい。」(新宿うら町おもてまち 野村敏雄/著)

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   正受院↑          会津の原っぱ↑

明治四十三、四年頃の内藤新宿町北裏通り番衆町附近図
(内藤新宿の思い出 第2集)

北裏通りとは現在の靖国通りのこと。
「この通りの南側には、牧場の四谷軒、大島陸軍大将邸、牧場の大平舎、正受院、成覚寺、牛やの原っぱ、牧場の耕牧舎、市電の車庫があり、北側には、安保海軍中将邸、会津の原っぱ、多納病院、浜野邸、前田邸の山林、三光院神社などがあった。」(内藤新宿の思い出 第2集)

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「会津の原っぱ」部分拡大

医大通り側に建物と林がある。容保公が住んでいた建物でしょうか?
市ヶ谷監獄農耕地は東京医科大学になり、東京監獄(市ヶ谷監獄)は都立総合芸術高校となっている。

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東京地籍図新宿区編第3巻東京市牛込区地籍台帳
昭和6年12月現在

市ヶ谷富久町
118-1 4198.18坪
118-2   57.00坪
118-3  136.82坪
137     120.73坪
138     399.18坪
139     257.36坪

明治12年と明治20年の地図には137~139番地がない。容保公が転居した後に分割して売却されたのかも。

この辺を川が流れていた。紅葉川の水源のひとつで、今の富久町交差点付近で本流に合流し、靖国通りから外堀に注ぎ、神田川へとつながっていた。

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緑・・・松平容保邸跡
赤・・・正受院(容保公・家族・照姫 仮埋葬)
紫・・・容保公生誕の地(高須松平家)
黄・・・西光庵 高須松平家墓所、生母(古森千代)墓もある
橙・・・山川浩邸跡
水色・・・玉川上水(暗渠) 保科正之公が老中らの反対を押し切って開削させた。

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2017年2月 5日 (日)

小日向 松平容保邸跡

うちの近所に松平容保公が住んでいた。牛込区市谷富久町118番地(新宿区富久町17番) 古地図を見ると、屋敷は医大通り側にあったみたい。明治7~8年頃?から16年。その後、明治16年から20年まで会津若松の御薬園に住み、小石川に移住した。明治26年逝去、正受院(新宿2丁目)に仮埋葬、大正6年会津院内御廟に改葬された。

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容保邸の庭でお買い物♪ 

2016年11月6日

晩年を過ごされた、小石川の容保邸があった付近に行った。小石川区小日向第六天町8番地(現在の文京区小日向1丁目2~3番地あたり)

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容保邸は称名寺脇の坂道を登りきったところにあったそうだ。

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松平容保終焉の地(説明板などは無い)

コーシャハイム小日向という賃貸住宅が建っている。閑静な住宅街。

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旧小日向第六天町(昭和41年までの町名)

 「もと、小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に、第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。
 明治2年、称名寺門前を併せ、同5年には旧大久保長門守下屋敷、寺地、先手組屋敷などを合併した。町名は、第六天前町の前の字を省いて、第六天町と町名を変更した。
 今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年に、徳川最後の将軍慶喜が移って来た。そして、大正2年、ここで波乱の一生を終わった。」

緑・・・松平容保邸
青・・・徳川慶喜邸

松平容保は明治26年12月5日に亡くなった。徳川慶喜が移り住んだのは明治34年12月。二人が過ごした時期は重ならない。現在は小日向1丁目と春日2丁目と別々だけど、同じ小日向第六天町で晩年を過ごしたのは偶然でしょうか。

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徳川慶喜終焉の地  春日2-8-9(国際仏教学大学院大学内)

 「徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
 その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍徳川家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
 翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、駿府(静岡県静岡市)に隠棲した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
 慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。  文京区教育委員会」

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地上を走る地下鉄丸ノ内線

慶喜邸の面影を残すものは、大公孫樹のみ。

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2016年6月23日 (木)

2016年6月19日(2)

2016年6月19日(日)

485系国鉄色、特急つばさは仙台駅を11時53分に発車しました。

タイフォンカバーが開いているのを撮りたくないからと、接着剤を使い細工した撮り鉄がいましたっけ。タイフォンカバーが開いている(上から2枚目)のも、なかなかカワイイと思います。

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山形駅13時18分に着いて、最後のお客さんを乗せて14時38分に出発、仙台駅には16時13分に着く。

1時間前までに仙台駅に戻ろう。12時1分に発車する電車があるから、とりあえず乗ってみた。仙台の辺りだとどの路線に乗っても本数が多いからなんとかなるだろう。白石行きの東北本線だった。時刻表を見ながら、どこで降りようか考える。名取駅は仙台空港鉄道の乗り換え駅で本数も多い、降りてみよう。もしかして、おつまみ工場があるのかな?

仙台(12:01)→名取(12:14) Suica237円

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おつまみ工場はなく、ビール工場があった。反対側の出口から出たが、駅前にコンビニや営業してる飲食店がない。

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名取市マンホール 市の木クロマツ

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市の花ハナモモと市章

正面はどの向きだろう? マンホールフックの穴か反対側か。名取市の「名」をデザインしただろうから、この向きだろう。

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衣笠の松

明治9年(1876)6月、明治天皇東北御巡幸の折、天皇御一行が御休息した際に、随行者の木戸孝允が詠んだ「大君の立寄りましし陰なれば衣笠の松とこそいうなかりけれ」という和歌によって「衣笠の松」と命名されました。

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たこうや どら焼きや水ようかんなどを買った。

駅前でどら焼きなどを食べ、ビール工場側の出口へ。こっち側へ出れば生協があったんだ。ちょっと生協に寄ってみた。「なとり」の会社はどこにあるのか? チーズ鱈の裏を見ると、東京都北区王子だった。
駅で本や新聞を読んで過ごした。

名取(14:51)→仙台(15:04) Suica237円

国鉄色485系が、最後のお客さんを乗せて山形から帰ってきます。

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16時13分、特急つばさは定刻通り仙台駅6番線ホームに戻ってきました。

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16時30分頃、車庫に戻るため仙台駅を出発する。悲しい汽笛が鳴り響く。国鉄色485系ありがとう。

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。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

最後に会いに行ってよかった。行かなかったら、絶対後悔してた。磐越西線をよく走ってた国鉄色に会えないと思うと寂しくて泣いたよ。

午後は曇ってた。磐越西線を最後に走るのは日曜日だったらよかったのにと思ってたけど、日曜日の午後は磐梯山がよく見えなかっただろう。磐梯山がてっぺんまで見える日に走ってもらいたいと思ってたから、結果的には土曜日でよかったと思う。仕事で見に行けなくて残念だったが。

どこかの鉄道博物館で先頭車だけでも展示してもらえないかな。保存してくれたら、絶対行くよ。

仙台(17:25)→東京(19:28) 自由席10370円

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2016年6月21日 (火)

2016年6月19日(1)

2016年6月18日(土)

485系国鉄色が会津を最後に走る日、仕事で行けなくて残念でした。仕事中はインターネットを私用で使うことは禁止されてるので、出庫回送から返却回送まで詳しいダイヤをメモしておき、今はどの辺を走ってるんだろうと想像してました。

特急ひばり 仙台(9:09)→郡山(11:21)

昼休みになり、特急ひばりが郡山に無事着いた画像を見て安心しました。

特急あいづ 郡山(13:30)→会津若松(14:41)
特急あいづ 会津若松(15:25)→郡山(16:54)

17時にツイッターを見て、特急あいづが会津若松から郡山に戻って来たことを確認し帰宅しました。

19日の日曜日に見に行く予定はありませんでした。5月8日に春の会津ふるさと号に乗ってお別れをしてきたし、人気の列車がラストランの日は撮り鉄さんの間でトラブルになると聞いていたから、嫌な想い出になるくらいだったら行かないほうがいいかなって考えてました。特急あいづとSL並走の約2分の画像を見たら、罵声の嵐でドン引き・・・。やっぱりやめておこう。でも、沿線の撮影スポットだからひどかっただけで、駅だったらそれほどでもないかなと考えるようになって、覚悟して行くと決めたのは日付が変わってからでした。週末パスは当日は買えないので、少々高くつくが仕方ありません。特急つばさの時刻をメモし、予定をたてました。福島で特急つばさを見送った後、新幹線(10:25)で先回りをして仙台へ。Suicaで入場し、到着と見送りをして、どこか他の駅で時間つぶし。仙台へ戻ってラストランを待って、回送列車を見送り。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

2016年6月19日(日)

東京(6:04)→福島(7:39)自由席8430円

いったん改札を出て、少し散歩した後、福島から仙台までの新幹線自由席(3160円)のきっぷを買いました。

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国鉄型特急車両485系ラストラン横断幕、設置中

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和太鼓の演奏が行われるようです

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国鉄型特急車両
   485系
  ラストラン

さよなら485系
     特急つばさ号 出発式
    2016年6月19日 福島駅

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送り込み回送 福島駅4番線 9:36着

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国鉄色と並走する「とれいゆ つばさ」が5番線に入って来た。

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福島駅長と一日駅長、報道陣向けにポーズをとっているようだ。

10時02分、特急つばさ号、警笛を鳴らし出発

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いってらっしゃい。福島駅発車は晴れててよかった。白石駅10:33着だから、福島県内を走るのは30分足らず。もう、福島県内を走っているところを見られないんだ。次に福島県(郡山車両センター)で見るとすれば、本当の別れが近いということだ。仙台駅11:18着予定。

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記念に福島民友を買った。

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山形新幹線に乗って山形へ向かった人も多かったみたい。自由席の行列が長かった。

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福島(10:25)→

白石蔵王通過。特急つばさも白石付近だろう。ん、なんだか曇ってきた。

→仙台(10:47)

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新幹線に乗って先回りをして、仙台に着いた。Suicaで駅の中に入って、特急つばさを見送った後に、近くの駅で降りて散歩するつもりです。

子どもの頃に「特急つばさ」に乗った記憶はないが、「特急やまばと」にたびたび乗ったことを覚えている。特急やまばとがどんな電車だったかは覚えてなくて、画像検索すると当時の写真が出てきた。485系国鉄色だったんだね。当時は早朝の番組で特急の空席情報をやってて、特急やまばとに乗って山形に行きたいと駄々をこねたっけ。

福島方面から特急つばさがやってきます。

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仙台駅の駅名標とともに

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会津若松駅の電光掲示板もこのくらいのコメントが出せたらよかったのに。

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乗車口のシール

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白石行きの719系が出発して、並んだところ。東北本線(黒磯~一ノ関)、常磐線、仙山線の719系が、E721系1000代新造車両に置き換わり、順次廃車になるそうです。磐越西線を走る719系は、いまのところ対象外です。

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記念撮影する親子

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そろそろ山形に向かう時間です。

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2014年10月27日 (月)

高須四兄弟のふるさとを探る

2014年10月19日(日)

新宿歴史博物館のイベントに参加しました。松平容保公ら高須四兄弟ゆかりのスポットをめぐる4キロほどのコースです。
松平容保公は十代高須藩主の七男で江戸の四谷荒木町に生まれました。他にも兄弟はいましたが、兄 慶勝・茂栄、容保、弟 定敬の4人を「高須四兄弟」といいます。11月24日まで「特別展 高須四兄弟 新宿・荒木町に生まれた幕末維新」開催中です。

この日は郡山でB-1グランプリがあるのをすっかり忘れてました。行けなくなったと断ろうと思いましたが、よくよく考えると松平容保公に関する新たな発見があるかもと思ったら、私には驚きの事実がありました。容保公が近所(新宿区富久町)に住んでいた時期があることと、容保公の実母の墓が新宿6丁目の西光庵にあるということです。

歴史・文化探訪「高須四兄弟のふるさとを探る」

『特別展「高須四兄弟」に関する史跡をめぐります。四兄弟は荒木町の美濃国高須藩の上屋敷で生まれました。当地には池や滝があり、明治には一般に開放され茶屋が集まる名所として賑わいました。その上屋敷跡や高須松平家の墓所で四兄弟の長兄徳川慶勝の墓がある西光庵などをめぐります。』

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高須四兄弟のふるさとを探る コース図 (553x415ピクセル)

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〔集合地〕 新宿区立新宿歴史博物館[三栄町22]

1.特別展「高須四兄弟」
↓車力門通り
2.津の守坂[荒木町13 住友不動産四谷ビル]

3.高須藩上屋敷跡[荒木町14・19]

4.策(むち)の池[荒木町10]

5.桐座跡(明治時代の芝居小屋)[荒木町10]

6.自證院[富久町4-5]

7.会津ヶ原跡[富久町18周辺]
 

《休憩》富久さくら公園[富久町21]

8.西光庵[新宿6-15-2]
   ・高須松平家墓
   ・徳川慶勝墓 

9.正受院[新宿2-15-20]
   ・野村氏墓
〔解散〕*最寄駅 新宿御苑前駅
      (東京メトロ 丸ノ内線)

高須藩松平家は、3万石の小藩だったが、御三家筆頭・尾張徳川家の分家であり、江戸定府が定められていた。藩領の美濃国高須は、現在の岐阜県海津市にあたる。

家祖・松平義行(よしゆき 1656~1715)は、尾張2代徳川光友の次男である。本家の尾張徳川家に後継者がない場合、養子を出すことと定められていた。

9代は水戸徳川からの養子で、10代義建(よしたつ 1799~1862)の正室は水戸徳川斉昭の姉である。幕末は水戸徳川家とのつながりが強くなっていた。

義建の4人の子が、幕末維新期に活躍した「高須四兄弟」である。

次男・徳川慶勝(よしかつ 1824~1883 尾張徳川14代)第一次長州征討の総督、明治になってから名古屋藩知事となった。

五男・一橋茂栄(もちはる 1831~1884) 高須11代を継いだ後、尾張徳川15代となったが、家督を兄慶勝の子に譲り、御三卿の一橋徳川家を相続した。

七男・松平容保(かたもり 1836~1893) 会津松平9代 京都守護職を勤め、会津戦争で最後まで抵抗した。

八男・松平定敬(さだあき 1847~1908) 桑名松平家13代 京都所司代を勤め、会津・箱館へと転戦した。

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明治18年頃の荒木町付近

青 紅葉川 川の奥は現在の靖国通り
緑 高須藩上屋敷
黄 もとは谷だったところを江戸時代に土手を築いた
水色 せき止めて池にした
ピンク 甲州街道(新宿通り)

屋敷には滝のある大きな池があった。明治時代になると、池や庭園が一般にも知られるようになり、名の知れた景勝地となり、料理屋が増え芸者らが行きかう花街となった。今でも車力門通りや杉大門通りの通り沿いや路地裏などにいろいろな飲食店がある。昔、池だったところはほとんどが住宅街になっている。

3班に分かれて、特別展「高須四兄弟」展の会場へ。高須四兄弟について説明の後、出発。住友不動産四谷ビル前に江戸時代の地図と史跡案内があります。

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荒木町のメインストリート 車力門通り

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昔は池の土手だったところをぐるっと1周。数回行ったことがありますが、すり鉢状の地形で迷いそうになります。

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津の守坂 一番奥は靖国通り

高須松平家初代の松平義行は、寛文6年(1666)従四位下左近衛権少将・摂津守に任官し、以下同家では代々摂津守を名乗っている。

松平家は延宝元年(1673)市谷本村に屋敷地を拝領した。延宝6年(1678)現在の荒木町付近を屋敷地として購入。天和3年(1683)の大火を機に、市谷本村の屋敷を返上、代わりに荒木町付近(約7万㎡)を新たに拝領した。こうして、荒木町一帯が松平摂津守上屋敷となり、幕末まで十三代を数える。

明治維新時の高須松平家当主は13代義勇(よしたけ 1859~91)であるが、病弱だったため、明治2年(1869)隠居した。

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高須松平家のお屋敷がこの辺にあったらしい。
防衛省の塔が見える(尾張徳川家上屋敷)

徳川慶勝が荒木町の上屋敷から撮ったと思われる尾張屋敷の写真が残っている。(特別展に展示)

慶勝は写真を撮るのが趣味で兄弟たちの写真も撮っていた。特別展に慶勝が撮った容保の写真(文久2年冬)があります。容保公の写真でよく見かける、天皇より下賜された大和錦の陣羽織を着ている写真が文久3年(1863)ですから、1年ほど前の写真ということになります。なんとなく表情が穏やかに見えます。

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以前は大雨でたびたび浸水したそうで、現在は太い下水道管が入れられ、浸水の心配はないみたいです。下水道工事中に江戸時代の石積暗渠が発見された。地下10mの深さに、延長50.4mにわたり埋設されていた。もとは谷だったところを、堤により塞き止め、池にした。この暗渠はその池の排水のために造られたようだ。現在も立派に役目を果たしている。使われている石は、伊豆地方から選ばれた安山岩で、江戸城の石垣と同じもの。落合水再生センター(上落合1-2-40)にその一部が復元されている。(落合に行ってみましたが、予約しないと中に入れません)

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策(むち)の池

徳川家康が鷹狩りの時、近くにあった井戸水で策を洗ったので「策の井戸」と呼び、澄んだ水が高さ4メートルに及ぶ滝となり、この池に注いでいたので「策の池」と呼ばれた。

高須藩下屋敷が西新宿にありました。そこにも「策の井」があったそうです。(新宿エルタワー)

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自證院 富久町4-5

寛永17年(1640)に没した三代将軍徳川家光の側室・お振りの方を供養するため、三代将軍徳川家光が創建した。お振りの方は家光との間に千代姫をもうけた。千代姫は3歳で尾張二代光友に輿入れする。千代姫は光友との間に男子を出産し、尾張三代綱誠と高須松平初代義行となった。

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Tomihisa Cross (富久クロス)

地上55階建の超高層マンション、全戸完売。キョンキョンが広告塔で、新聞広告のデカいのが度々入ってた。うちはマンションを買えるほどの余裕はないのでチラシは見るだけだった。敷地内にイトーヨーカドーが出店するというのは楽しみ。

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会津ヶ原跡 富久町18周辺

「古老によれば、富久町118番地(現富久町18)のあたり一帯が「会津ヶ原」と呼ばれていたという(『東京の中の会津』)。松平容保が牛込区富久町118番地から、小石川区小日向第六天町八番地(現文京区小日向)へ転出したのは、明治20年(1887)1月28日のこととされているから、おそらく松平家が富久町を去った後、この地が「会津ヶ原」と呼ばれるようになったのであろう。」(資料より)

容保公が住んでいたのは高層マンションの真下ではなく、低層棟のあたりと思われます。goo地図の明治時代の古地図を見ると、富久町118番の敷地が意外と広いことがわかります。富久町に一時期住んでいたことがあると、何かで見ましたが、まさかここだったとは。130年ぐらい前だからかなり昔のことですけど。今の靖国通りは松平家が引っ越した後に拡張された。図書館で昔の地図を見比べると、118番地の一部が道路になっているようです。今まで知らずにこの辺を歩いてました。バブルの地上げで更地と空家がだんだん多くなって、虫食い状態になっていました。こんな大規模な再開発が進むとは思いませんでした。

図書館から「紙碑・東京の中の会津」(1980年発行)を借りてきました。明治6年1月に愛宕下邸で生まれた女児が早世し、三田の実相寺に葬られた。明治7年3月に早世した男児2人(おそらく双子)が正受院(新宿2丁目)に葬られた。この間に愛宕下から富久町へ移転されたであろうと推測している。

ここに13年ほど住んでいたということになるが、実際はそうではなさそう。後半(明治15年から6年間)は会津若松に住んでいたようだ。

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↑これは後日、撮ったものです。

容保公が住んでいた頃、この辺はどんなところだったんだろう。富久町西交差点に馬のモニュメントがあったよな。

 「むかし、新宿は武蔵野の原野で人家もありませんでした。江戸幕府が開かれると、白壁の材料となる石灰の輸送が盛んになり、それを運ぶ成木街道(青梅街道)と甲州街道の接点の地は次第に人馬の往来が増え、内藤新宿という町並みが形成されました。しかし内藤新宿の北に位置するこの辺りは、宿場のにぎわいとは無縁の静かなところでした。
 明治・大正の頃この地には牧場もあり、緑豊かな素晴らしい環境でした。いまは、この地が緑豊かな「まきば」であったことも想像できないくらい“にぎわい”あるまちかどを見せています。」

いろいろ調べてみるとこの辺に「四谷軒牧場」があって、乳牛がいたそうです。この地に牧場を開いたのが明治20年というから、松平家が引っ越した頃みたいです。後ろがステーキ店と牛丼店なのは単なる偶然か。モニュメントを馬にしたのは店に配慮したんでしょうか。あと、新宿2丁目にも芥川龍之介の父が経営する牧場があったそうです。

ちょっと余談が長くなりました。

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西光庵 新宿6-15-2
高須松平家と尾張徳川家の江戸における菩提寺

こちらは尾張徳川家墓地入口。旧尾張藩士が奉納した石灯籠があり、そのなかに、山岡鉄太郎(鉄舟)の名前もあります。

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尾張14代・17代藩主 徳川慶勝墓

母は徳川斉昭の姉ですから、徳川慶喜とは従兄弟にあたります。

墓の高さは人の2倍くらいありそう。
墓は円形の土壇で、明治政府の命令により、神葬形式で葬られました。昭和28年、遺骨を愛知県瀬戸市・定光寺の徳川家納骨堂に改葬したので、現在は墓石だけです。

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左 江戸時代最後の高須藩主・13代松平義勇の墓(松平容保の弟)

真ん中の小さい墓が、松平容保・松平義勇の生母(10代義建の側室・古森千代)の墓

配られた資料には容保と生母の古森千代の写真もありました。不鮮明ですが、5人写っていて、中央に男の子(小学生くらい)が写っています。弟の義勇でしょうか?

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正受院 新宿2-15-20

●松平容保墓跡
 「かつて会津藩主松平容保の墓があったが、戦後、福島県会津若松市に移されて現存しない。現在、墓は会津若松市の院内にある。
 容保は、天保6年(1835)松平義建の七男・銈之允として誕生した。弘化3年(1846)4月27日、会津松平8代容敬(かたたか)の養子となり、嘉永5年(1852)会津藩28万石の9代藩主となった。治安の悪化した京都市中を、京都守護職として警固し、孝明天皇から絶大な信頼を賜った。
 明治26年(1893)12月5日、東京小石川邸(現文京区)で没し、9日に正受院に仮埋葬され、大正6年(1917)6月9日になって、先例に従いようやく院内の歴代墓所に葬られた。つまり、容保が正受院に葬られていた期間は、およそ23年6か月の長期にわたる。」(資料より)

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●野村家の墓
 「正受院の門を入った境内の正面に鐘楼がある。この鐘楼の奥のあたり一帯、約二十坪が松平家の墓域だったという。今は他家の墓石が建ち並んでいて、そこがかつて松平家の墓所だったことを証明するものは何もない。かつての松平家の墓所の一角にあたるあたりに、会津藩士のもの言われる墓が一基建っている。
   野村家之墓 大正七年十月建之 野村栄治
とある墓がそれである。ここには松枝という女性が葬られており、彼女は生涯独身で、容保の晩年の身辺を世話したという。その感謝の意で、容保の墓が院内に改葬された後、その跡地の一部を寄贈され、そこに松枝を埋葬したものだという。」(資料より)

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現在は区画整理された墓地から松平家の墓地があったと思われる方向を撮りました。
近くに俳優F氏夫妻の墓もありました。息子さんも俳優で、その奥さんも女優です。

これだけ新宿にゆかりがあるのに、松平容保公に関する碑や説明板は新宿区にありません。

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緑・・・松平容保邸跡
赤・・・正受院(容保公・家族・照姫 仮埋葬)
紫・・・容保公生誕の地(高須松平家)
黄・・・西光庵 高須松平家墓所、生母(古森千代)墓もある
橙・・・山川浩邸跡
水色・・・玉川上水(暗渠) 保科正之公が老中らの反対を押し切って開削させた。

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2014年9月19日 (金)

新宿歴史博物館「高須四兄弟」展

2014年9月15日(月・祝)

新宿歴史博物館「高須四兄弟」展を見に行きました。
この日は会津松平家14代当主松平保久氏の記念講演会が行われましたが、残念ながら抽選に外れて聞けませんでした。
福島県立博物館・会津若松市・会津武家屋敷・松平氏関係者所蔵の資料が10数点ありました。
一部の展示は前期と後期で入れ替わるので、後期にまた行きます。
特別展図録(1000円)を買いました。

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新宿区立新宿歴史博物館

平成26年度 特別展

高須四兄弟

新宿・荒木町に生まれた幕末維新

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9月13日(土)~11月24日(月・振)

前期展示:9月13日(土)~10月13日(月・祝)
後期展示:10月15日(水)~11月24日(月・振)

開館時間:9時30分~17時30分(入館は17時まで)
会場:新宿歴史博物館 地下1階 企画展示室
休館日:9/22、10/14、10/27、11/10
観覧料:一般300円(常設展とのセット券は500円)、中学生以下無料

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平成26年度 特別展
高須四兄弟
新宿・荒木町に生まれた幕末維新

 『新宿歴史博物館のそばに「津の守(つのかみ)坂」という坂があります。これは代々「摂津守(せっつのかみ)」を名乗った美濃国高須藩松平家三万石の上屋敷があったことにちなんでいます。高須松平家は御三家・尾張徳川家の分家で、尾張藩の支藩として荒木町に江戸上屋敷を、西新宿に下屋敷を有しました。幕末の第十代藩主松平義建(よしたつ)の子慶勝(よしかつ)、茂栄(もちはる)、容保(かたもり)、定敬(さだあき)は、この荒木町の上屋敷に生まれ、各々他家に養子に出ました。本家尾張藩を継ぎ、明治新政府に与した徳川慶勝、維新時、徳川家を代表して明治政府と交渉する立場に立った御三卿の一橋茂栄、新政府軍に徹底抗戦した会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬。彼らはそれぞれの立場で、激動の幕末・維新を生き抜いています。
 本展示は、「高須四兄弟」の波乱に満ちた事績と彼らの実家である高須松平家を貴重な資料の数々からご紹介します。』

第1章 兄弟の実家-高須松平家-
第2章 維新前夜
第3章 高須四兄弟
     ①徳川慶勝
     ②一橋茂栄
     ③松平容保
     ④松平定敬
第4章 京都へ-一会桑体制-
第5章 高須藩邸の諸相
第6章 東へ-江戸・柏崎・会津・箱館-
第7章 再開-兄弟のきずな-

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